押井守監督作品が好きなので、最近押井守監督の本をよく読みます。
シーザーを理解するのにシーザーである必要はないように、押井守を理解するのに押井守である必要はありませんが、どんなことを考えているかは知っておこうということです。
ということで、気になった部分をメモしていきます。
純粋と言うなら、実はオヤジの方がはるかに純粋だ。どういう点が純粋かというと、オヤジたちは自分の欲望に対して純粋なのである。
P.31
(略)
欲望というのは、何もドロドロした欲のことを言っているのではなく、自分が大事にしているものの姿が見えているということだ。
「家族を守る」という欲望に忠実に生きているオヤジだって、世の中にはたくさんいる。
(略)人からの押し付けやデマゴギーではなく、ちゃんと自分の頭で考え抜いて、自分なりの価値を探すのだ。仕事でも、家族でも、世界平和でも、革命でも、何でもいいが、自分が準じる哲学を自分の手で勝ち取るのだ。
P.37
(略)
判断基準は自分の中にしかないということに気づくことが大切なのだ。そうやって内面における自由を得られるということが、オヤジになるということの本質なのである。
重ねて強調するが、オヤジになるということは、融通無碍に生きる術を身につけ、精神において自由を得るということだ。
P.39
↑自分もオヤジに片足を突っ込み始めたので気になるところでした。
なんか最近はもはやあまり葛藤もなく、とりあえず自分がやりたいことをしています。
そういう意味では精神において自由なのかもしれません。
この社会では他人との人生と関わり、他人の人生を背負い込むことぐらいに楽しいことはない。それは恋愛でも、結婚でも、就職でも、起業でも、同じことである。逆に言うと、誰からも必要とされない人間ほど寂しいことはない。人は誰かから必要とされて、本当に生の喜びにひたれる。
P.49
社会とつながっていたいという欲求は、人間が動物として持っている本能に起因するものである。それは、外で働くオヤジだけでなく、家にいる主婦だって同じだ。誰もが社会の中で一定の位置にいたいと思うのが、人間の自然な姿なのである。
P.52
↑この辺の感覚を理解していないので、押井守監督作品を見てもしっくりこないことがあるのだろうか。
INNOCENCEにしても、スカイ・クロラにしても、話はわかるけど奥に潜んでいる深いテーマがよくわからなかったりするので…。
つまり、人生とは常に何かを選択し続けることであり、そうすることで初めて豊かさを増していくものであって、選択から逃げているうちは、何も始まらないのだ。このことは後の章でも見方を変えて論じることになると思うが、要は選択する、つまり外部のモノを自分の内部に取り込むことを拒絶してはダメだ。
P.63
他者をいつまでも排除し、自分の殻の中だけに閉じこもっていては、本当の自由を得られないことはすでに述べた。結果的に結婚していようがしていまいが、そんなことはどうでもいいことだ。ただ、「いつだって結婚くらいはしてやる」「他人の人生を背負い込むことぐらいはできる」という気概を持って生きていなければならないということなのだ。
「オレは仕事だけでいい」というやつは単にいじけているだけだし、「オレは女だけでいい。愛に生きる」というのはウソに決まっている。普通は、恋愛の相手からの絶対評価と、社会からの相対評価の両方をもらって、やっと満足できるものなのだ。
P.80
人生は映画みたいなものだ。もちろん失敗も挫折もある。それを避けては通れない。それどころか、失敗や挫折そのものが人生の醍醐味とも言えるのだ。
P.87
何の波乱も起きない退屈な映画を見たいだろうか。エンディングは分からない。ハッピーエンドに終わるとも限らない。でも、どんな結末を迎えるにしても、何もせず、すべてを保留した生き方より、はるかにそれは豊かな人生だといえるだろう。
↑ここら辺もイマイチ同意できず。
自分は押井守が語る青年のように、面倒事は抱えたくないのです。
だからいい歳こいて子どもじみているのかもしれません。
社会とのつながりなんてめんどくさいし、誰かの人生なんて背負い込むのもめんどくさい。
長いこと生きていけばそういう考え方も変わってきたりするのだろうか?
このあたりも映画のテーマに含まれていたりするんだろうなぁ。気がついてないだけで。
(略)また、一個人の生き方としてもすべてをスッキリさせず、いい加減に生きていくことが一番ではないか、と思うのだ。
P.171
↑ここは同意です。すべてをきっちりさせようとすると歪みが生じて生きるのがつらくなります。