
ミステリー好きなら一度は耳にしたことがあるであろう、綾辻行人さんの代表作『十角館の殺人』。私も最近再読して、改めてその魅力に引き込まれました。
読了後、ふと疑問に思ったんです。「これって、クローズド・サークルものって言っていいのかな?」と。
完璧な閉鎖空間に惹かれる私たち
まず、クローズド・サークルとは何か、簡単におさらいしましょう。
ミステリーにおけるクローズド・サークルとは、外部との連絡が遮断された状況で事件が起こり、犯人がその場にいる人物に限定される、という設定のことです。たとえば、吹雪で孤立した山荘、嵐の孤島、動かない豪華客船などが典型的な舞台として挙げられます。
このジャンルの魅力は、読者も登場人物と同じように、限られた情報の中で犯人を特定しようと推理を巡らせること。閉ざされた空間での緊迫感、そして「この中に犯人がいる!」というゾクゾク感がたまらないんですよね。
『十角館の殺人』も、本土から隔絶された孤島に建つ「十角館」が舞台。まさにクローズド・サークルのお手本のような設定です。学生たちがボートで島に渡り、外界との交通手段が限られている。これで犯人は島にいる誰か、という前提で物語は進む、と誰もが思いますよね。
「小型ボート」が読者の心理を揺さぶる
しかし、物語が進むにつれて明らかになる、ある「事実」に、多くの読者は衝撃を受けます。
そう、犯人が小型ボートを使って、島と本土を行き来していた、という真相です。
これを知ったとき、正直な感想は「え、それアリなの!?」「なんだか卑怯じゃない?」というものでした。私だけでなく、この作品を読んだ方の中には、同じように感じた方も少なくないのではないでしょうか。
なぜなら、私たちは「クローズド・サークル=完全な閉鎖空間」という固定観念を持っていたからです。その前提が覆されたとき、これまで積み上げてきた推理がガラガラと崩れ去り、まるで裏切られたかのような感覚に陥るのです。
「卑怯」こそが叙述トリックの醍醐味
しかし、この「卑怯だ」と感じる要素こそが、綾辻行人さんが仕掛けた叙述トリックの真骨頂なんです。
叙述トリックとは、文章表現や情報の提示の仕方を巧みに操り、読者に意図的に誤った先入観を抱かせる手法です。読者が持つ一般的なミステリーの知識や物語の定石を逆手に取り、当たり前だと思い込んでいることを打ち破ることで、より強烈な驚きと、後から振り返った時の「やられた!」という快感を生み出します。
『十角館の殺人』では、「孤島ミステリーだから、犯人は島内にいる人物」という読者の思い込みを逆手に取りました。作中の描写に嘘は一切ないにも関わらず、読者が勝手に作り上げてしまう「常識」や「前提」を巧妙に利用しているんです。
初めて読んだ時の衝撃は忘れられません。確かにルール違反のように感じるかもしれませんが、それこそがミステリーの可能性を広げ、読者を深く引き込む魅力でもあるのです。
新本格ミステリーの金字塔
この「小型ボート」のトリックを含め、『十角館の殺人』は、日本の新本格ミステリーの幕開けを告げた作品として、今もなお高く評価されています。既存のミステリーの枠にとらわれない斬新な発想と、読者の盲点をつく巧妙な仕掛けは、多くのミステリーファンを魅了し続けています。
「卑怯」と感じたその感情こそが、この作品の仕掛けにまんまとハマった証拠。そして、それが『十角館の殺人』が色褪せることなく語り継がれる理由の一つなのだと、改めて感じさせられます。