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押井守著「ひとまず、信じない」を読んで気になったポイント

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押井守監督の書いた本なので読んでみました。
2017年発行なので、割と新しめです。
最後の方はシン・ゴジラの批評も書かれていて興味深いです。

本の内容はおおよそこんな感じです。↓

そもそも虚構と事実に違いがあるのか。幸福とは何か。僕らはどうして仕事をしなければならないのか。仲間は必要なのか。そして、真に映画で描かれるべきものとは、いったい何なのか。
これらのことについて考察したのが本書である。

P.20

まるで哲学のような問いになってしまったが、本書ではもっと単純に、幸せになるためには何をすべきか、社会の中でポジションを得ていくにはどうしたらよいのか、そんなことも僕なりに論考している。

P.23

押井節で書かれていますが、割と完結に書かれているので読みやすく、サクサク読めます。
ただ読み返してみると何を言わんとしているのかよくわからない箇所も多数あり…。
凡人にはハードルが高いのかも。
でも60歳の哲学者のような人の考えを読めるのは結構面白いと思うのですよ。

(略)人間は変化し続ける。僕が60歳になって、ようやく自分というものがわかりかけてきたように、人は死ぬまで、自らが何者なのかわからない。そしてそのまま、彷徨っている。

P.39

↑60歳のあの押井守監督でもそういうふうに思うのだなとちょっと安心。
それなら若輩者の自分にわかるわけないわという安心感。

(略)幸福になるために、自分は何を選ぶのか。それができなければ、絶対に幸福にはなれない。なぜなら僕たちは仕事と同じで、人生という期間限定の制約の中を生きているからだ。

P.43

今の状況を支えている条件は何で、それは将来どう変化して、そのときに自分はどういうリストに従って生きるのが幸せなのか。それを考えないといけない。それをさぼっていただは、幸福論を満たしているとは言えない。

P.50

↑人生の中で何を大切にするのか順位付けが必要で、自分は何を選ぶのか?というような文脈でした。
全部選ぶことはできないので、取捨選択するしかありません。
自分が何を大切にしたいのか?振り返って見るのがよさそうです。
自分の場合は「心の平穏」だなと思い、これまでの己の諸々の行動に納得したりしたのでした。

幻想は人を不幸にする。これが僕の考えるテーマである。リアルに目覚めた人間だけが、結局は幸せになれる。僕は、その幻想を人さまに売って商売をしている人間なので、余計にそう思うのである。

P.56

↑アヴァロンのことを言っているのかな?と思ったり。

(略)僕が大学時代に世話になった先生は「怠け者には二種類ある」と言っていた。すべてを先延ばしにするやつと、すぐに仕事をすませてしまうやつだというのだ。
後者は怠け者ではないように感じるが、先生の定義によれば、それは怠け者の一種で、早く楽になりたいから、急いで仕事を終わらせてしまうタイプなのだという。

P.76

↑自分はまさに後者のタイプだなぁと思ったり。
抱え続けるのが面倒なので、さっさとやっつけちゃうんですよねぇ。
まさか怠け者の一種だったとは。(笑

自分が知覚しているこの現実と、本当に自分が生きている現実が同じものなのであるという保証はどこにもない。これは、科学的にも実証しようがないことなのだ。

P.92

↑子供の頃、自分の目に見えている色が人と本当に同じなんだろうか?と考えていた時期があったのを思い出しました。
まぁ目の仕組みから言えば同じに見えてるはずなんですけど。
ただここで言っているのは知覚そのものなので、話が違いますね。
いま現実だと思っているここが仮想現実でないとは言い切れないわけで、考えるとモンモンとしてしまいます。

あと、この文章を読んで「沙耶の唄」を思い出しました。
あれは主人公が知覚している現実と、本当に自分が生きている現実に齟齬が発生した話なので、似たようなものかなと。

「誰かに必要とされている」ということが、人間にとっては一番重要だということを書いた。人には必ず「自分の席」が必要だ。自分の役割があって、それが誰かの役に立っていることが、人が幸福感を得るための条件であると指摘した。
何も持たないことが自由だと勘違いしている人たちがいる。結婚したり、子どもを持ったり、会社で役職に就いたりすると、面倒を抱えることになる。だから、そんなものはない方が自由だという理屈である。
しかし、その考えが正しいとはとうてい思えない。
「自由」は人間が勝ち得た最大の美徳という言われ方がよくなされるが、何かをなすための方法論的な価値でしかない。自由そのものに、最終的な価値があるわけではないのである。
(略)自由は手段ということにほかならない。それ以上のものではないが、自己実現のためにはどうしても必要なのものだ。だから、何も背負わない状態を自由とは呼べない。そこには達成感がないからである。何も背負うことができない人間は、周囲から見れば、いてもいなくてもよい人間ということだ。それは自由ではない。

P.116

誰かに必要とされる生き方と、好き勝手に生きる生き方というのは、それほどまでに違うものだ。若い人は特に、このあたりでつまづく。年寄りにはない可能性を秘めていることが、自分の価値だと誤解している。どんな人生でも自由に選べるという可能性が自分の価値だと思うから、いつまでも可能性だけを保留したいと願う。
(略)「可能性」は選択して初めて「可能性」となる。「自由」は何かを背負って初めて「自由」になる。

P.121

↑読んでいる時はなんだか刺さった気がしたんですが、読み返してみるとよくわからず…。

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