「隠蔽捜査」が面白くないと感じる理由とは?合理主義者には「当たり前」すぎる?
今野敏氏の人気シリーズ『隠蔽捜査』。 主人公・竜崎伸也が、周囲の反発を恐れずに「原理原則」を貫く姿は、多くの読者に爽快感を与えています。しかし、日頃から論理的・合理的な判断を重んじる人の中には、この物語に対して「……で、何が凄いの?」と、冷ややかな違和感を覚える層が一定数存在します。
なぜ、世間が絶賛する物語が、一部の読者にはこれほどまでに「普通」に映ってしまうのか。その理由を、合理主義的な思考プロセスとの相違から紐解いてみます。
導き出される「正解」があまりに自明である
物語の面白さは、普通、主人公が困難な選択を迫られ、悩み抜いた末に意外な解決策を見出すところにあります。しかし、合理主義的な視点に立つと、本作が提示する問いの多くは、検討するまでもない「既知の最適解」に見えてしまいます。
- リスク管理の視点: 組織の不祥事に直面した際、「隠蔽」が発覚した時の致命的なダメージと、「公表」による一時的なコストを天秤にかければ、後者を選ぶのは極めて妥当な判断です。
- 意思決定のスピード: 竜崎が周囲と対立しながら導き出す結論は、論理的な読者にとっては「議論の出発点」に過ぎません。
答えが分かりきっている問いを、一冊かけて丁寧に証明される過程を見せられているような感覚――。これが、驚きやカタルシスを感じられない大きな要因かもしれません。
周囲の「非合理性」へのリアリティの欠如
本作では、竜崎のまっすぐさを際立たせるために、周囲の登場人物たちが過剰なまでに「メンツ」や「感情」「組織のしがらみ」に縛られた存在として描かれます。
一般的には「組織のリアル」として共感を集めるこれらの描写も、合理的な思考を好む人から見れば、単なる「エラー(間違い)」の強調に見えてしまいます。「なぜ、これほどまでに自滅的な選択をする人間が組織の要職にいるのか?」という疑問が先行してしまうと、物語の対立構造そのものが、どこか作り話のように感じられてしまうのです。
家庭の問題も「管理不足」に見えてしまう
多くの読者が「人間味」を感じる家庭内トラブルのエピソードも、合理的な視点では少し見え方が異なります。
エリートである竜崎が、家庭という身近なユニットでリスクを制御できていなかったこと自体が、一つの「予測ミス」のように映ってしまうため、そこでの葛藤に素直に感情移入しにくいのです。情動的な解決よりも、一貫したロジックによる解決を期待する読者にとっては、ドラマ部分が冗長に感じられることもあるでしょう。
結論:前提としている「常識」が違うだけ
結局のところ、『隠蔽捜査』を面白く感じるかどうかは、読者が日常的にどのような「前提」で社会を見ているかに左右されます。
- 多くの読者: 「社会は不条理で、正論を通すのは極めて困難である」という前提があるため、竜崎の行動が「困難に立ち向かう英雄」に見える。
- 合理的な読者: 「正論こそが最も効率的で確実な手段である」という前提があるため、竜崎の行動が「当たり前の手続きをこなす実務家」に見える。
あなたがこの作品を「つまらない」と感じたのは、決して感性の問題ではありません。むしろ、「道理が通らないこと」を当然とせず、常に筋の通った判断を基準に置いていることの表れだと言えます。
この作品は、合理的な判断が「特別な勇気」として称賛されなければならないほど、現実社会が不合理な慣習に満ちている、という皮肉な現実を浮き彫りにしているのかもしれません。